あなたが患者になったとき,医者とスムーズに方針決定するために知っておくべきこと.
一般的に患者と医者の間では意思決定の方法が違うと考えられています.
医者の判断基準
1.客観的なデータ
ほとんどの医者はガイドラインや論文などの大多数の患者から得られた客観的なデータを診察,自分の治療方針に使っています.
2.経験
また一般的な病院に勤務している医師であれば,その疾患をもつ患者さんを多数みており,考えられる経過,治療の効果などについて経験をもっているでしょう.
3.患者さんの状態
いくらその病気に対して第一選択とされている治療でも,その患者さんのコンプライアンスや,合併症の観点から推奨されない場合があるためです.
合理的で確実な治療の選択
医師は医学的に合理的,妥当な選択をしていき,できるだけ効果が確実で失敗が少ない確実な治療を選択する傾向があります.
残念ながら,患者さんは多くいらっしゃるので,治療方針の決定などにはあまり感情は関与せず,客観的な,ある意味ドライな意思決定を行っているのです.
確実な治療を選択する傾向として,例えば,風邪と思っても重症化予防に抗菌薬を処方したり,薬の選択に迷った際には効果が多少違っても副作用の少ない方を選択するなどがあります.
リスク(副作用)の大きい治療は副作用の割合,内容を細かく説明する必要があり,仮に薬の副作用が発生して,患者さんがその内容について説明されておらず,重篤な障害が残った際には薬剤の説明義務違反に問われることもあるからです.
患者さんの判断基準
一方患者さんには多数の判断基準があり,個人の考え方,環境によって大きく異なるのが現実です.
がんや手術であれば一生に一度の問題になることもあります.
価値基準,感情によって様々なバイアス(いわゆる偏見といってよい)が生じることが証明されています.
このように医者と患者さんでは根本的に考え方が異なるため
医師「○○の治療法は□□と△△があり,両者の治療の違いは〜〜で副作用はそれぞれ・・であると考えられます.□□は効果が大きいのですが,副作用も大きく,身体に優しい△△の治療を選択する方法もあると思います.
あなたはどちらの治療を希望されますか??」
患者さん「 ・・・ちょっと考えさせてください」
医師 「・・・」
というように,十分に丁寧に説明をしても相手(患者や家族)が(理解力が)悪かったと片付けてしまっているケースがあります.
インフォームド・コンセントという意思決定の方法は,「人間は合理的に判断し,選択可能な生き物であるという考え」に基づいているといっていいでしょう.
しかし,医療についての知識や経験が欠如している患者さんやその家族が合理的に考えるという前提には無理があります.
また人間の意思決定には合理的な決定から系統的に逸脱する傾向があります.
そのため,現在のインフォームドコンセントでは医師がすべての情報を提供して患者さんに選んでもらうというスタイルになりますが,
逆に合理的な意思決定ができない可能性があります.
この合理的な考えから逸脱する傾向というのは「行動経済学」という学問で説明可能であり,両者の溝を埋める方法として有効なので紹介します.
行動経済学とは
人間がかならずしも合理的には行動しないことに着目し、伝統的な経済学ではうまく説明できなかった社会現象や経済行動を、人間行動を観察することで実証的にとらえようとする新たな経済学。
2002年に行動経済学者のダニエル・カーネマンがノーベル経済学賞を受賞して以来、脚光を浴びるようになった。
カーネマンが心理学を修めたこともあって、経済モデルに人間の心理を組み込み、経済実験やアンケート調査などを駆使する特長がある。
従来の経済学(新古典派)は、合理的で、利己的で、金銭的利益を最大限追求しようとする「完全な個人」をモデルとして、精緻(せいち)な理論を構築してきた。しかし日本経済がバブル経済期に株式や土地投機に熱狂して大きな損失を被ったように、人々は合理的とはいえない行動をとるケースがままある。こうした非合理性な人間の行動に一定の法則性をみいだし、行動の癖や傾向を明らかにするのが行動経済学である。
つまり,「非合理性な人間の行動に一定の法則性をみいだし、行動の癖や傾向を明らかにする」
ことが行動経済学であり,
患者さんは常に合理的な選択をするはずという医師の誤った考えと患者さんの溝を埋めるのに有効なのです.
行動経済学における重要な概念
1.行動経済学的特性
人は合理的に意思決定をしているように考えられていましたが,現在では非合理的な行動をするというふうに捉えられています.
非合理的な行動をする原因として,不確実性下での意思決定という制約がつくためです.
そのような意思決定モデルとしてプロスペクト理論が提唱されています.
プロスペクト理論
特に金融や医療など不確実性下での意思決定は確実性効果,損失回避を元にした意思決定モデルの1つです.
1.確実性効果
確率加重関数では人は低い確率を過大評価したり,実際には高い確率と考えられる数値でも過小評価するという特性を表しています.
2.損失回避
次の項目でも説明しますが,人の心理として利得<損失であるため同じ金額の利益と損失でも心理的負担としては損失の方が大きくなることが知られています.
投資だけでない! 日常にもよく見られるプロスペクト理論 | 精神科医による辛口投資論
このプロスペクト理論を用いると,副作用などの損失が考えられる治療はたとえ,副作用の確率が小さかったとしても確率加重関数の理論により低い確率を過大評価したり,損失を嫌うことで,治療に躊躇するということが考えられます.
①損失回避
絶対に損をしたくないという心理で損失がでる行動を回避してしまう心理のことです.
例えば,硬貨を投げて,数字の面が表に出たら,あなたは1万円を獲得.
もし裏が出たらあなたは私に5,000円を支払う
このようなギャンブルがあったとします.
多くの実験によると,このようなシチュエーションでは
ほとんどの人がゲームに参加しないことが明らかになっています.
それは“損をしたくない”という感情が強く働くためです.
人は利益がでたことによる喜びよりも,損失の苦痛のほうが2~4倍大きく感じるといわれています.
医療の現場では抗がん剤など治療を開始,もしくは変更が必要な場面で現状から健康が損なわれてしまうという損失の面を強く感じて治療を拒否するケースなどがあるでしょう.
②現在バイアス
未来の利益よりも目先の利益を優先してしまう心理のことです.
例えば,今もらえる5万円
1年後にもらえる7万円
どちらかを選ばなければいけない場合どちらを選びますか?
合理的な判断としては1年後にもらえる7万円と,現在5万円をもらって1年投資,運用して得られる金額とを勘案して決定するということになります.
しかし,未来の喜びというものはなかなか想像しにくいものですし,逆に目の前の利益があらわれたときに人の心は動いて行動に影響を与えてしまいます.
ダイエット,運動,禁煙など始めた方がいいことはわかっていても,目先の欲求に負けて始められない場合や,つらい意思決定をする必用がある際に生じる,先延ばしという状況が想定できます.
③社会的選好
自分以外のことを考慮して行動する心理のことを指します.
従来の経済学では,自分の利益のみを最大化するような人を想定していました.
ですが,さまざまな検証で他者の状態を考慮したり,相手の行動に合わせて行動したりする主体がいることがわかっています.
利他性や互恵性などもこの範囲に入るとされています.
2.限定合理性
合理的であろうと意図するのですが,認識能力の限界や思考費用がかかるため直感的に判断することで限られた合理性しか持ちえないことを指します.
①サンクコストバイアス
サンクコストとは“埋没した費用”という意味です.過去に支払った費用や,努力のうち戻ってこないものをさします.
サンクコストバイアスとはすでにお金や時間を支払ってしまったという理由だけで損なことを続けてしまう心理を指します.
②意志力
精神的,肉体的に疲労している状態では意思決定力そのものが低下していることを指します.
患者さんの多くは肉体的,精神的に疲労していることが多く,難しい意思決定をすることが困難な場合があります.
③選択・情報過剰負荷
選択肢,情報を十分に提示することは必須と考えられます.
しかしマーケティングの分野などで過剰な選択肢,情報量は逆に意思決定の低下につながるとされています.
情報量が多すぎることによって,選択することに対して大きな困難やストレスを感じてしまうためです.
そのため医療の現場では重要な情報をわかりやすく提示する必要があります.
④平均への回帰
データに偏りがあったとしても,いずれ平均値へと近くなる現象のことをいいます.
例えば,両親の身長が平均より高かったとして,子供の身長がさらに平均を超えて高くなるかというと,そうではなく,平均値に近づく確率が高くなると言われています.
⑤メンタルアカウンティング
「心の会計(心の家計簿)」とよばれ,人が何か意思決定をする際に,様々なことを勘案して総合的(合理的)に判断するのではなく,狭いフレームの中で判断してしまう心理のことをいいます.
例として,「あぶく銭は散財してしまう」,「給料は大切に使う」というように,お金の入手方法に応じて使い方を変える傾向があります.
3.ヒューリスティックス
ヒューリスティックスとは,「近道による意思決定」や「意思決定をしたり判断を下すときに,厳密な論理で一歩一歩答えに迫るのではなく,直感で素早く解に到達する」方法のことをさします.
正確に計算したり,情報を集めたりして,合理的な意思決定を行うことと対照的な方法です.
ヒューリスティックスにも様々な種類があります.
①利用可能性ヒューリスティック
正確な情報を手に入れないか,そうした情報を利用しないで,身近な情報や即座に思い浮かぶ知識をもとに意思決定を行う心理のことを指します.
例として,医師が提示する医学情報ではなく,新聞広告や知り合いが受けたという薬,治療法を信じることが利用可能性ヒューリスティックである.
②代表性ヒューリスティック
合理的意思決定ではなく,似たような属性だけをもとに判断することです.
医療者側では患者さんの年齢,基礎疾患で病気を推測しがちなこと,患者さん側では所属している病院や噂などで医師を判断してしまうことなどが挙げられます.
③アンカリング効果
印象的な情報を付加することで行動に影響を与える心理効果です.
行動経済学で注目されてからマーケティングの定石の一つになっています.
新聞やテレビでの「癌が消えた」,「痛みがなくなった」など印象的な情報を伝えて,その治療法に誘導する方法と考えられます.
④極端回避性
「松竹梅の法則」とも言われています.同種の商品が上・中・下の3種類あった場合に,中間の値段の商品を選ぶ傾向にあります.
これを「極端回避性」といいます.
⑤同調効果
相手に自分と共通の事柄があると安心感や親近感を覚える心理効果です.
私達は同僚や隣人の行動をみて,自分の意思決定をする傾向があります.
アンカリング効果,代表性ヒューリスティックと相まって,身近な人の治療効果がよさそうに見えた際に,同調効果が働いて治療選択するということがよくみられます.
現状維持バイアス
もう一つ現状維持バイアスという概念も存在します.現在バイアスの派生と考えてもいいのですが,不確実な未来よりも,現在の状態を維持することを希望しがちであるという意味で損失回避の概念もが発生していると考えることができます.
また保有効果という,既に所有しているものの価値を高く見積もり,ものを所有する前とあとでそのものに対する価値を変えてしまう特性が働き,現在の状態を所有しており,変更することを嫌うという性質があります.
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行動経済学的対策
これらの行動経済学的特性から考えられる対策を挙げていきたいと思います.
フレーミング
同じ中身のものだとしても表現の方法次第では相手の印象を変えることができる効果です.
同じ情報を伝える際に,その表現の仕方次第で,伝えたいメッセージをより強調することができる.
簡便,伝える情報の中身を変える必要がないことがメリットです.
ナッジ
直訳すると「ひじで軽く突く」という意味です.
強制によってではなく自発的に望ましい行動を選択するよう促す仕掛けや手法を示す用語として用いられます.
ナッジには
①直接推奨:自分の意見を伝えて,最善の方法と説明する.
②規範の提示:多くの患者さんは〜と説明する.
③利得の提示:相手にとってのメリットを提示する.
④利得の提示(他者):患者以外の家族へのメリットを提示する.
⑤社会的な負担:社会保険など社会的な負担を提示する.
などの方法があります.
特に患者への心理的な負担を与える可能性があることには注意が必要です.
また患者の意思を誘導するものであってはいけないと考えられます.
しかし一方で,本人に決めさせさえすれば,医療倫理における「自律原則」が保持されて倫理的であると言えるかどうかは疑問です.
医学情報を適切にもたない患者さんの選択に対して,
「患者の選択だから」と自己決定権が守られていればいいというのは倫理的に間違っていると思われるからです.
またナッジは意思決定者の希望と逆方向にまで誘導できるものではないことも研究で証明されています.
そのため患者さん側は判断に迷ったら,「先生だったらどうしますか?」という選択肢に対する医師の回答は参考になるでしょう.もちろん,その医師が信頼に足るかどうかはしっかりと検討してください.
また医師の側も,自分が家族だったらという思いで,自分の意見や他の患者さんの傾向を説明するということはスムーズな方針決定に有効だと思います.